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教育と学習の違い
 教育と学習の違いについても、簡単に触れておきましょう。

   教育は、個人の外側から内側へのはたらきかけ。
   学習は、個人の内側から外側へのはたらきかけ。

 すべての人が教育を受けようという気持ちを持っているかどうかは疑問ですが、私は、学習しようという意欲は、ありとあらゆる人の中に存在していると考えています。学習は、生きていくこととほとんど同義語に等しいほど、自然で普遍的な行動だと思います。

 幼児を見ていると、ともかく外界のありとあらゆるものに興味・関心をしめします。それがおもちゃだろうと、食べ物だろうと、手でさわり、口にして、何かを知ろうとする。誰かにそうしろと言われて、するわけではありませんから、ほとんど本能的な行動といっても良いでしょう。このように、外界に無限の興味関心をもち、探究していくことが、学習の原点だと私は考えます。

 ところが、親や保護者は、見ていて危なっかしいから、それは駄目、これも駄目と安全を確保しようとします。もちろんそれは大切なことで、子供は次第に、手でさわって良いもの、口にして良いもの、を区別し、知識を身につけていきます。

 ところが、子供が学校に通う年齢になると(もっと早い場合もあるでしょうが)、むやみやたらに、興味関心を示すことは奨励されません。関心をもっても良いこと、興味を向けてはいけないこと、の区別ができてきます。この区別は、親や先生から与えられるものといっても良いでしょう。たとえば、小学生であれば、学校の勉強に関係のあることはOKだけれども、危ない遊びやセックスに関係することはNOという具合に。もちろん、反発することもあるでしょうし、禁止されているからこそ、かえってやりたくなるということも多いわけですが。(中・高校生の喫煙はその典型でしょう。)

 小学生というのは、6歳から12歳までの子供がもっているたくさんのアイデンティティの1つにすぎないわけですが、いつの間にか、「私=小学生=勉強する子供」という部分の占める割合が大きくなっていきます。「私=遊ぶ子供」とか「私=コミュニティの一員」というアイデンティティはどんどん意識のすみに追いやられていきます。「8歳の一人の人間」という全人格的見方はほとんど失われ、「小学生として良い子かどうか」という基準が大きなウエイトを占めるようになります。学習の幅は、どんどん狭くなり、学校で行なわれていることだけが、まっとうな教育であり、学習であるかのように刷り込みが行なわれていきます。そして、「勉強=先生に教わること」という図式ができあがってしまうのです。

 学習は、本来、自主的なもので、強制することはできません。「馬を井戸端に連れていくことはできるが、馬に水を飲ませることはできない」という言い回しがありますが、学習についても同じことが言えます。教育がなくとも、学習は成り立ちますが、「学習なき教育」は、誰にとっても不幸なのではないでしょうか?


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